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【第4話】石炭 〜「燃える石」の発見〜

小樽市総合博物館 館長 石川 直章
2021.3.31 更新






「燃える石」の発見


1868(明治元)年、蝦夷地石狩川支流の山奥で奇妙な黒光りする石が見つかった。
一説には小樽本願寺別院の建築用材の伐採に入った大工がその発見者といわれている。
残念ながらアイヌの人々が「燃える石」をどのように認識していたか、資料が乏しく詳細は分かっていない。
少なくとも文献上では、これが空知・幌内の石炭の最初の発見だと言われている。
この石炭はすぐに開拓使に届けられた。この時期、すでに開拓使は石炭を道内で探していた。したがって「石炭とは何か」を知らなかったはずはないのだが、なぜか開拓使ではこの届け出を放置している。

ではなぜ開拓使は石炭を探していたのか?それは幕末に結んだ「日米和親条約」が原因だった。
嘉永7(1854)年に帰結されたこの条約で、下田と箱館の開港が決まる。
さらにこの二港に来航した米国船(のちに他の外国船にも)は「薪、水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。」と明記されている。
石炭以外は国内どこでも調達できたが、石炭だけは供給が困難だった。
なぜなら当時は需要がほとんどなく、採掘がされていなかったからである。



石炭は何に使ったのか?


文献に石炭と思しきものが出てくるのは室町時代の終わり頃である。
おもに九州北部で家庭用燃料として使われていた。
その後、江戸時代半ばに瀬戸内で塩田開発が進むと、製塩作業の燃料として使われるようになり、筑豊地区周辺で小規模な炭鉱が開発されていく。

しかし、遠く離れた箱館まで石炭を回航するのは困難であり、管轄する箱館奉行所は道内での採掘を試みる。
試験的な採掘まで行ったのは、釧路近郊の白糠と積丹半島西側の茅沼(泊)である。
特に泊の茅沼炭鉱では近代的な採掘技術を導入し、トロッコによる石炭搬出(わが国最初の「鉄道」とする説もある)も行っている。

官営幌内鉄道が完成し、石炭輸送が開始されてから4 年後、明治19(1886)年の統計では、全国で算出した石炭の53%は製塩の燃料として使われ、工業用の動力燃料は17%にすぎない。しかし、この10 年後には全体の45%が工場用に用いられるようになっている。
このころから、石炭は日本の近代化を支える重要な資源として採掘量も飛躍的に増加していく。



石炭をどうやって運ぶのか?


さて、一度はお蔵入りになった幌内の石炭だが、明治5(1872)年、再度開拓使に持ち込まれる。
その時、この石炭に着目したのが、当時、開拓使物産取調掛であった榎本武揚である。
榎本は若い頃、オランダに留学しており、化学の基礎知識を身に着けていた。
榎本はこの幌内の石炭がきわめて良質であることを理解し、開拓使お雇い外国人ライマン(地質学・鉱山学)を派遣する。
ライマンの調査結果は、極めて有望な炭層の存在を証明するものであった。

問題は、幌内からどうやって石炭を運び出すかであった。
白糠や茅沼はともに海岸が近く、船積みで対応することができたが、発見当時の幌内は奥深い山中にあり、重たい鉱石を運び出す手段がなかった。

当時、北海道開発の指揮を執っていたアメリカ人ケプロンは2案を提示した。

(1)案は幌内から幌向太(石狩川)まで鉄道を敷き、川船で石狩まで運び、そこから小樽の港まで搬送する案。

(2)案は幌内から鉄道で室蘭の港まで搬送する案。

ケプロンは2案を提示し、(2)の室蘭までの鉄道敷設を推奨している。

これに対し開拓使や明治政府では莫大な建設費がかかる鉄道敷設には消極的であり、江戸時代より行われていた石狩川の河川交通を手直しする(1)案が優勢となり、結局、この案を一部修正したものが計画される。
ここで短距離とはいえ、鉄道システムの導入が決まり、米国から鉄道および土木の専門技術者としてクロフォードが招聘される。
クロフォードは来日当初は幌内から幌向太までの間の鉄道敷設を計画する。
しかし、来日時期が12月であり、すでに山奥の幌内での実測は無理な時期であった。
そこで、とりあえず小樽−札幌間の馬車通行可能な道の建設に着手する。
クロフォードはこの工事を5ヶ月という驚異的な日程で完成させる。

馬車道が竣工した同年12月、開拓使は政府に石炭運搬の鉄道を「幌内―小樽間」に変更を申し出、その許可を受ける。
クロフォードは、江別太や幌内太までの運行では石炭以外に貨物は考えられないが、小樽まで延伸した場合は「荷物乗客ヨリ生ズベキ利益ハコトゴトク石炭ノ運送費ヲ減少スベキ補助トナルベキ」(開拓使報文より)という利点が強調されている。
幌内鉄道の本質が鉱山鉄道であったこと、そして小樽延伸で初めて公共交通機関としての乗客運搬の議論が出てきたことを示している。



「炭都」小樽の象徴高架桟橋


高架桟橋

幌内鉄道と幌内炭鉱は設立当初は営業成績は振るわず、委託に出された後、「北海道炭礦鉄道」に譲渡される。
ちょうどその頃から、国内での近代的工場が稼働するようになり、石炭需要は急伸する。
また沿線各地に入植した人々が作った農産物も鉄道によって運ばれるようになる。

物流の中心となった小樽は、石炭が集約され、出荷される「炭都」でもあった。
かつて、手宮に大きな木造構造物「高架桟橋」があったことはご存知の方も多いのではないだろうか。
長さ313m、高さ20m、幅23mの巨大なものであった。
手宮公園下の崖沿いに作られた引込線を蒸気機関車に押された石炭貨車が進み、桟橋の上で貨車の下から石炭をシューターにして輸送船に降ろしていた。
明治44(1911)年に完成したが、昭和19 年、老朽化と空襲の危険性を考え撤去された。

小樽港の名物となっていた高架桟橋の写真は今も多く残されている。
さらに集まってくる石炭の量は増え続け、ついにもう一つの貯炭場が小樽築港に作られた。
現在はまったくその面影はないが、大型商業施設のある築港駅周辺一帯は巨大なクレーン(石炭ローダー)が動き回る場所だった。
当時、高架桟橋と石炭ローダーは「炭都」小樽のシンボルであった。


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