【第6話】帆布 〜和船の革命 松右衛門帆〜

小樽市総合博物館 館長 石川 直章
2021.3.31 更新






和船の革命松右衛門帆


江戸時代、いわゆる北前船と言われた西廻り航路だけではなく、「菱垣廻船」「樽廻船」などと呼ばれた沿岸航路の海上交易が盛んになっていく。
船の構造から遠洋航海には向かなかったと言われているが、江戸時代中期までその問題は帆にあった。
この当時、船の大小にかかわらず、帆の材質は莚(むしろ)もしくは、綿布を数枚重ね、縫い合わせた「刺子」であった。後者の方が耐久性はあったが、大きな帆の全面に刺子を施す労力は大きく、その労力に比べると耐久性はまだ信頼に値するものではなかった。
18世紀、天明5(1785)年、播磨国高砂(現在の兵庫県高砂市)、工樂(御影屋)松右衛門によって、現在の帆布の原型といえる「松右衛門帆」が開発される。
播州特産の綿を使った厚手で広幅の帆布を織り上げることにより生まれた松右衛門帆は、あっという間に全国の船で愛用される。
これには松右衛門が製法を一般に公開したことも大きく影響している。
これにより、沿岸航路の安全性区距離は飛躍的に増大した。近江商人の活躍、北陸などの船主集落の隆盛はこの帆の改良によってもたらされたといっても過言ではない。
また帆布生産も綿の生産地で定着していく。



ニシンはどこへ


18世紀後半から、ニシン漁の中心的な漁場となった後志沿岸部では莫大な漁獲が記録されている。
特に明治以降、角網の発明により、最盛期を迎える。
この時期、8〜9割は〆粕などの魚肥に加工され本州などに向けて出荷され、それが巨万の富をもたらした。
つまりニシン漁は食料生産という側面よりも、肥料の原料生産の要素が圧倒的に大きかったのである。

もちろん、縄文時代以来、アイヌ社会においてニシンは重要な食料で、遺跡からの出土遺物にもニシンの骨がしばしば見られる。
しかし、江戸時代、和人による大型の網を使った漁は江戸中期から肥料生産を一つの目的としていた。
ニシン漁肥の使用は18世紀前半に近江ではじまり、18世紀後半には近畿全域に、19世紀半ばまでに北陸や瀬戸内にまで広がる。
肥料としての商品も初期は胴鰊(身をはいだ後の頭と背骨)や笹目(エラ)、白子などであったが、19世紀初め、ニシンを茹でたあと圧搾する「〆粕」が広まると、日持ちがして栄養価の高いニシン〆粕は大きく販路を伸ばしていく。

明治10年頃になると、胴鰊とニシン〆粕の生産量は逆転していく。
明治38年の統計によれば、ニシンの売上高は811万円あまりで水産物全体の66%を占めている。
このうち〆粕だけで556万円をあげている。
ちなみにこの年、道内工業生産高は986万円、また石炭出炭額は700万円あまり。
ニシン〆粕製造が一大産業であったことを示している。
この〆粕は、北前船以来の伝統的な航路により北陸、瀬戸内の各港に運ばれていった。
そして綿、藍、菜種などの商品作物の栽培に使用されたのである。
特に、幕末から明治前期にかけて、特に主要な産物であったのが、藍と綿であった。



伝統的建造物群の中の「ニシン蔵」


岡山県倉敷市と言えば「アイビースクエア」で有名な倉敷川河畔地区で、なまこ壁や大原美術館を思い出す方も多いであろう。
このアイビースクエアはもともと倉敷紡績の工場であったが、ではなぜ倉敷にこの立派な紡績工場があったのであろうか。

倉敷市にはもう一つ伝統的建造物が保存されている地区が存在する。
瀬戸内海に面した下津井地区である。
下津井は江戸時代以前から瀬戸内航路の港町として栄えたが、17世紀頃から始まった干拓事業によって、周辺に広大な畑作地を抱えている場所でもあった。
しかしこの畑作地は塩分を多く含んでおり、米作には適さなかった。
そこで塩分のある土地でも育ち、当時商業活動の進展とともに需要が高くなっていた、綿と菜種の栽培を始めるのである。
この綿花生産の中心地に、西洋技術を導入して造られたのが旧倉敷紡績工場である。

ところでクワと並んで綿も菜種もニシン〆粕の使用が多い作物であった。このニシン〆粕も大量に下津井に運ばれており、ニシン〆粕を貯蔵する蔵が下津井のまちに次々と建てられていった。

現在、「むかし下津井回船問屋」の名称で復元されているニシン蔵は荻野家(西荻野家)が所有していた営業倉庫である。
荻野家は江戸時代後期より倉庫業(北前船で運ばれてきたニシン〆粕の保管場所として倉庫料を得る)や金融業を営んでいた。
これが如何に莫大な富をもたらしたかは、下津井の「荻野美術館」(ここは東荻野家の旧蔵品が中心)のコレクションをみるとその一端がわかる。

一時、帆船の衰退、合成繊維による防水シートの普及などにより、帆布生産も減少した。
しかし、その技術を応用したカバンなどの新しい商品開発が進み、松右衛門の出身地高砂市では新しいブランドとして復活している。
また、倉敷の帆布生産は、現在全国の7割を占め、その技術は世界的な地域ブランドになっているジーンズにも継承されている。
白いなまこ壁の土蔵がつづく、穏やかな瀬戸内の小さな町に残されたニシン蔵は、その振り出しになった後志の海岸とは全く違った景色であるが、逆にそれがニシン〆粕が遠い場所の農民たちにいかに渇望され、運ばれていったのかが実感できる。

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