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【第3話】旧日本郵船株式会社小樽支店 〜ジョサイア・コンドルの弟子たち〜

小樽市総合博物館 館長 石川 直章
2020.12.20 更新






ジョサイア・コンドルの弟子たち


明治政府が、東京などの主要都市に西洋風の巨大な建物を次々と立てていったことは、日本の近代化を国民に理解させるために大きな力となった。

外国人技術者を招くだけではなく、日本人建築家を養成することが喫緊の課題となっていく。

明治政府は、明治10(1877)年、イギリスから弱冠25 歳の青年建築家ジョサイア・コンドルを招聘し、工部大学校造家学科教授とする。

その最初の学生はわずか4人。その中の一人が、重要文化財日本郵船株式会社小樽支店(以下「日本郵船小樽支店」もしくは「小樽支店」)の設計者、佐立七次郎(1856―1922)である。

佐立の同期生は、日本銀行本店・小樽支店や東京駅を設計した辰野金吾、三菱一号館、三井銀行小樽支店などを手掛けた曽禰達蔵、迎賓館など宮内省関係の建物を設計した片山東熊の三人。
いずれも国内に多くの建物を建て、重要文化財に指定されているものも多い。

一方、佐立の作品は小樽支店と東京にある「日本水準原点標庫」(国指定重要文化財)のみである。
性格的にも社交的とは言えなかったようで、三人とくらべると知名度は低い。

しかし「同期生」とは言いながらものちに日本建築界をリードし、東京大学教授となる辰野や、恩師コンドルと同じ年で彰義隊の生き残りの曽禰など、強烈な個性を持った三人に対し、佐立がコンドルと会ったときはまだ18歳の青年で最年少、己を主張せよ、といっても土台無理な環境ではあった。

そんなこともあってか、恩師コンドルは現場の助手として佐立をよく連れて行った。
その意味で、コンドルの影響を最も忠実に受けたのは佐立といえる。

彼が設計した代表作といえる名古屋郵便局(濃尾地震で倒壊。佐立の隠遁生活のきっかけといわれる)や東京証券取引所(関東大震災で倒壊)は、重厚ながらも、優美なヨーロッパの様式を取り入れた作品であった。

特に東京証券取引所は小樽支店とよく似た外観を持ち、プロトタイプともいえる。

コンドルの教えを守り、内部装飾も輸入建材を巧みに取り入れながら、統一されたデザインで設計されている。
一方で、寒冷地に対応した二重窓や取手、手元を照らすことのできる照明など、使う人のことを考えた設計になっている。

建物内の動線を「一般客・賓客・職員」の三区分にすることなど、近代建築の要素をしっかりとコンドルから受け継いだものといえよう。




写真:落成当時の様子(小樽市総合博物館所蔵)

写真:落成当時の様子(小樽市総合博物館所蔵)




写真:1階営業室。天井から低い位置まで吊り下げられた照明が並ぶ。令和2年7月から令和5年6月まで保存修理工事の為内観、外観ともに非公開。

写真:1階営業室。天井から低い位置まで吊り下げられた照明が並ぶ。令和2年7月から令和5年6月まで保存修理工事の為内観、外観ともに非公開。




1階部分の二重ガラス窓

写真:1階部分の二重ガラス窓




幻の壁紙金唐革紙(きんからかわかみ)


旧日本郵船小樽支店の内観で圧倒されるものが、二階の貴賓室、大会議室に貼りめぐらされた、「金唐革紙」である。

すでに製造から110年の月日が流れており、煌びやかな光沢は薄れたとはいえ、精緻な文様や立体的な構成は、在りし日の栄華をしのぶには十分である。


写真:当時の2階貴賓室。壁一面に金唐革紙が貼られている。

写真:当時の2階貴賓室。壁一面に金唐革紙が貼られている。




先述したように、建築当時の最新技術と、自前の航路を生かした舶来の建材で建設された日本郵船小樽支店の壁紙であるため、当然のように「英国製の壁紙」「欧州製の華麗な壁紙」などと表現された時期がある。
昭和31(1956)年以来、ここを使用してきた小樽市博物館の当時の説明書にも「英国製」と書かれていた。

ところが、国指定重要文化財となったことを契機に、昭和59(1984)年から実施された修復工事の中で、この壁紙はかつては日本が誇る技術で製造され、海外にも輸出された和紙を加工した壁紙であることが判明した。

「金唐革(きんからかわ)」がまず歴史に登場する。革に薄い金属箔を重ね、草花などの文様を型押し、さらに光沢を出す処理をしたものが16世紀ころの西欧で流行する。

主に椅子などの調度品の装飾に用いられたようであるが、これが17世紀になると、オランダを経由して日本にもたらされた。
この革の装飾を「金唐革」(金色にひかる、舶来の革製品)と呼ぶようになる。
18世紀後半から19世紀にかけて、これを和紙で模したものが登場し、煙草入れなどに用いられるようになり、革製品の模造ということで「金唐革紙」と呼ばれた。

明治に入るとさらに技術は進化していく。それに目を付けたのが大蔵省印刷局であった。

設立当初の印刷局は、本来業務の紙幣の印刷工場というだけではなく、最先端の印刷技術の模範工場でもあり、副業的な生産(石鹸・朱肉など)も製造していた。
その部門で、和紙加工を専門とする職能集団が壁紙として金唐革紙の製造に取り組んだのである。
その結果、明治13(1880)年に試作に成功、見本を欧米各国におくったところ、注文が殺到する極めて優れた製品が出来上がった。
その生産・輸出は明治30 年代前半がピークとなる。
佐立が小樽支店を設計している頃、日本の金唐革紙はまだ栄光の時代にあったのである。

その後、和紙の機械すきの普及により、優品の和紙が減少、さらに欧米各国で機械生産による安価な類似品製造が開始され、製造・技術は衰退していく。
記録では昭和12(1937)年に最後の製造所が生産を終了し、それ以降、忘れ去られていく。

しかし、日本郵船小樽支店の工事をきっかけに、その技術の復元が試みられた。
同時に全国で金唐革紙の存在が再発見され、その修復にも小樽支店での経験が生かされている。

日本郵船小樽支店の壁紙をよく見ていただきたい。天井から床まで一枚のロール紙となっている。
木型に押し付けて凹凸を出す、金唐革紙の技術で、この切れ目なく文様を作る技術はまだ未解明であり、この壁紙の完全な復元はまだ不可能なのである。

あまりに優れた工芸品であり、また極めて短命であった金唐革紙。
経年変化でくすんだ色に哀愁を感じるのは、そのような歴史からであろうか。



写真:現在の2階貴賓室の金唐革紙

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