【第8話】色内銀行街

小樽市総合博物館 館長 石川 直章
2021.4.10 更新






金融の街小樽


旧手宮線散策路を越え、日本銀行旧小樽支店(金融資料館)から色内十字街周辺にかけての地区は、小樽の歴史的景観を代表する地区である。
明治から大正、さらには昭和中期までの建造物、特に銀行建築が建ち並ぶ景観は圧巻である0。
実は、半径500mの狭い地域に、各時代の銀行建築がこれほど密集して残る地区は日本では他に見当たらない。
北海道の近代化だけではなく、日本の近代化を象徴する地区と言える。
かつて小樽は20 を超える銀行が活動する「金融の街」であった。



小樽の銀行


小樽で最初の「銀行(国立銀行条例に基づく銀行)」は明治12(1879)年に第四十四銀行と第六十七銀行が各支店を小樽に置いたとされる。
場所は不明であるが、翌年に開設した三井銀行小樽出張所が「士場町(現在の住吉町と信香町にあたる)353」に置かれていることから、当時の小樽市街地の中心であった南小樽地区のいずれかに開かれたと推定される。

日本に「銀行」という制度が持ち込まれたのは明治5(1972)年の国立銀行条例の制定、翌年の渋沢栄一による「国立第一銀行」の設立からと言ってよいであろう。
3年後の明治9(1876)年に条例が改正され、設立が許可された三井銀行が函館出張店と札幌出張店を開設している。
これが北海道最初の銀行である。

小樽最初の銀行、第四十四と第六十七銀行はともに長くは営業できなかった。
第四十四国立銀行は前年に東京で設立され、根室にも支店を開設するが、二年後には第三国立銀行に合併され、明治25(1892)年に支店を閉めている(第三銀行はその後安田財閥に吸収され、現在のみずほ銀行のルーツの一つとなる)。

第六十七国立銀行にいたっては、明確になっているのは支店の開設年のみで、いつ撤退したのかも不明である(第六十七国立銀行そのものは、設立者の本拠地である山形でその後も営業を続け、現在、荘内銀行となっている)。
これらの出来事は、その後の小樽金融界の「前史」と考えてよいであろう。

しかし、この二つの銀行が、従来の金貸し業者の金利よりかなり低利の貸し付けを行ったり、紙幣と同等の価値を持った「小切手」を発行したり、まだ未成熟であった小樽経済界に寄与したことは間違いない。



三井銀行の登場


明治13(1880)年、三井銀行が小樽に出張店を設けた。
この年の11月に官営幌内鉄道が開業するが、開店はその前、付近には質素なものとはいえ、官公庁や諸官庁、「北前船」の荷を扱う廻船問屋などが軒をならべ、丘を降りた海岸線近くには船が舳先を並べていた。
それに乗り込んできた船頭たちを相手にする料亭もあった。

しかし翌年の大火後、経済の中心地が堺町色内方面に移り、三井銀行も港町(現在の堺町付近)に移転した。
さらに数年後(明治22年には移転済み)に、現在小樽芸術村旧三井銀行小樽支店がある場所に移転している。
明治20年以前、色内通りに面した海側(東側)にはわずかに平地はあったが、波打ち際とも言える場所であった。

ちょうどこの頃から埋立が進み、大規模な石造倉庫群が建ち始めている。
新しく開けた地区への移転と言えた。
三井銀行は明治15(1882)年の日本銀行設立以前は、政府の経理を担う官金取引業務を行っていたが、日銀設立以降も、北海道拓殖に関して、開拓使や北海道庁などが行う事業についての金融業務を行っていた。
その意味で北海道でもっとも主要な銀行であり、東北以北、支店は小樽のみの1 店舗であった。
このことからも明治中期の小樽の発展の度合がわかる。

市内の銀行数も明治20(1887)年は3行のみであったのが、明治30(1897)年には10行、明治40(1907)年には16行と急増している。
この時期の各銀行支店は、現在の色内通りの北側(総合博物館運河館の山側付近)から堺町通りにかけて広がっていたが、明治45(大正元:1912)年に日本銀行小樽支店が現在地に新築移転してからは、新築移転・新規出店の際に、日銀周辺から色内十字街にかけての地区に建てられるようになり、大正末には市内の銀行(無人を含む)数は25行まで増加する。
この地区はのちに「色内銀行街」「小樽銀行街」と呼ばれるようになる。

この時期は小樽運河も完成し、「北日本随一の経済都市」の様相を表すようになる。
この頃の小樽を三井銀行小樽支店長は「過去十数年間ニ於キマスル小樽ノ進歩発達ハ畢竟日本全体ノ進運ニ伴フ自然ノ現象ニ外ナラヌノデゴザイマセウガ、(中略)何處モ一体ニ進歩シタト申シマスル内デモ殆ド類例ノナイ位極メテ急速ノ歩調ヲ以チ進ミ又現ニ進ミツゝアルノデアリマス」と近代日本の中でも特筆すべきスピードでの発展を強調しさらに、「帝国有数ノ商港トシテ其盛況ナルコトハ神戸横濱ニ亞ギ、更ニ将来ノ繁昌ヲ予想シマスレバ多大ノ希望ヲ以テ待設ケ得ラルゝ」、つまり神戸、横浜に続く、わが国第三番目の商港としているのである。



斜陽の町の銀行街


戦争中、小樽も直接の戦災は少なかったものの、船舶の入港が激減したが、復興の拠点として道内各地からの石炭や食糧を本州に向けて出荷していた。
銀行も営業を再開し、新たに住友銀行が昭和22(1947)年に進出してくる。

戦前の栄光の時期も再来するかと思われたが、次第に札幌にその地位を奪われ、皮肉にも昭和36(1961)年、住友銀行の撤退を皮切りに銀行の流出がつづき、小樽は「斜陽の街」と言われるようになる。

しかし、大きな戦災がなく、高度成長期に「斜陽の町」となり、建物の更新がとまったことで、戦前の名建築がほとんどそのまま遺された。
これが現在、小樽の観光資源として大きな魅力となっている。

冒頭にも述べたが、旧手宮線散策路から運河に向かって歩けば、各時代の銀行建築が迎えてくれる。
昭和初期の写真、ほぼそのままの光景を今も見ることができるのである。



参考文献
渡辺慎吾2003 「小樽の銀行小史」(『小樽市博物館紀要』第16 号
同2010 「総合史年表解説」(『小樽学』12 号)

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