【第1話】 北前船とは何か?

小樽市総合博物館 館長 石川 直章
2020.10.26 更新






 「北前船」はかなり一般的な用語となっており、小樽市も認定されている日本遺産「北前船寄港地・船主集落」にも使用されている。ところが、その定義については定説化されていないといってよいだろう。日本遺産で使用されたイメージでは「江戸時代、大坂から瀬戸内、日本海側の港をつなぎ、蝦夷地松前まで回航していた帆掛け船」といったところである。別の定義ではこれに「買い積み船」すなわち、入港する港で価格の高低差を利用した売買を繰り返し、航行していく形態を加えることも多い。北海道で「北前船」の用語を定着させた、地方史研究の先駆、越崎宗一氏によれば「徳川時代から明治にかけて北海道と北陸関西間を、日本海を通って物資の交流につくした千石船」と紹介している。



 一方で江戸時代のいわゆる西廻り航路で交易をおこなう船の名称として「北前船」がふさわしいのか?といった根本的な疑問もまだ解決していない。高校日本史の用語としてはすでに定着しており、かなり広く用いられてきているが、本来は一部の地域で使われていた名称であった。たとえば北海道では「弁財船」「ベザイ船」さらには「千石船」などと呼ばれていたことが知られている。ただ、先述の越崎氏の文章に氏の祖母の言葉として「お前のお祖父さんは郷里から「北前」に乗って小樽にやってきた。」という表現が記録されており、北陸(越崎家は加賀より来道)もしくは北海道でも使用されていた可能性がある。




北海道に来航した船は?


 「北前船」問題をさらに複雑にしているのは、時代による変化である。江戸時代、現在の北海道は松前藩の治める道南の「和人地(松前地)」と幕藩体制の外側に位置付けられた東西の「蝦夷地」に区分され、和人地から蝦夷地への(和人の)渡航は許可制であった。一方で、松前藩は藩士への禄米給付の代わりに、蝦夷地での交易権を区間(商場、場所)を区切って認めた。「商場知行制」という方式で関与していた。当初はその地域のアイヌの人々が収穫した魚や海獣類などを交易していたが、のちにこれを近江などの商人に委託するようになる。いわゆる「場所請負」が始まると、商人たちは船や網などを貸し付け、漁業を推奨し、さらには雇用して使役するようになる。小樽周辺では遅くとも18世紀後半から、西川家、岡田家によるニシン漁が大規模に行われ、そこで生産されたニシン粕は本州各地に運ばれていった。ではそのニシン粕は「北前船」が運んだのだろうか?答えは「ほぼNO」である。



 商船の自由な航行(もちろん規制はあるが)は松前地までであり、そこから先は場所請負商人の持ち船、もしくはチャーター船のみが、基本的にはその場所へのみ航行できた。



 それが撤廃されるのが明治2(1869)年である。船の航行を管理していた「海関所」が小樽に移転したことで、小樽までの自由航行が可能となり、大量の船が押し寄せるようになる。つまり、小樽にとっての北前船は明治以降の出来事(例外はあり)であり、全国的にイメージされている「北前船」とは若干異なる要素を持つ。そして明治期のどの統計書をみても「北前船」の名前を見つけることができないのである。




港を埋める「和式帆船」


小樽港図(小樽市総合博物館所蔵)

 小樽市総合博物館が所蔵する明治13(1880)年、今村三峰によって描かれた『小樽港図』には港を埋めるばかりの帆船が描かれ、そのほとんどが一枚帆の和船である。一般的には「北前船」とされているが、航路や荷捌きの形態は絵からはわからない。実際、本州からの荷物を道内各港に回航する船も多く存在した。北海道の「北前船」最盛期ともいえるこの時期の記録には、港に出入りする船は「汽船」「帆船」の二区分となっている。さらに明治20年代になると「汽船」「洋式帆船」「和式帆船」の三区分となり、この「和式帆船」にあたる帆船の中に「北前船」が含まれている。



 積み荷も江戸時代から変化している。実は、筆者は北海道の「北前船」が果たした最も重要な役割は、本州からの移住者の生活を支えた船であると考えている。博物館が所蔵する、本州からの移入品の細目がわかる統計は明治10(1877)年のものがある。この段階ではまだ、主な荷出港は北陸などの日本海側で、形態としては伝統的なものが残っている。また移入品のトップは米であることも同様であるが、塗物、建具などの生活物資、紙や杉皮などの原材料も多く運ばれている。さらに20年後、明治38(1905)年となると、米の首位は動かないものの、農産物という意などの工業製品はほぼ同額となっている。




瓦と小樽


 その移入品の統計に出てこない、主要な移入品があった。それが瓦である。積雪地であり、本州にない寒冷な気候のため、北海道には不向きな建材であるが、防火には優れていたため富裕層や大型建築には多く用いられた。小樽周辺では、一部に北海道産のものもあるが、越前、若狭、加賀の瓦が使用されていたことが確認されている。



 5年ほど前までは、小樽倉庫旧本庫でも若狭瓦を使用し、毎年2、300枚の葺き替えを行っていた。倉庫街があり、富裕層の邸宅が立ち並んでいた明治から大正期の小樽では、相当量の瓦の需要があったはずである。近年、瓦消費についての研究がいくつか成果を上げ始めているが、なぜ大量に運ばれた瓦が統計に出てこないのであろうか?



 よく言われるように、「北前船のバランスをとる重りとして積んできた」ことは間違いないが、商品として流通していることも事実である。明治20年代に、次々と建てられた大型倉庫の多くは北前船交易で財をなした人々のもので、自前の船で安価な北陸産の瓦を大量に運ぶことができた。しかし、トタンなどさらに安価な防火建材の普及、回漕業からの撤退などにより次第に姿を消していった瓦。しかし、小樽港、そして北海道の近代化のためにこの地で暮らした人々の生活を支えた日本海周りの帆船「北前船」の残した遺産でもある。

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