【第9話】斜陽の町からガラスの町へ

小樽市総合博物館 館長 石川 直章
2021.4.10 更新






「ガラスの町」の登場


小樽が観光都市に変貌する直前の昭和59(1974)年、著名な家庭雑誌『暮らしの手帖』の巻頭で小樽の特集が組まれる。
長年続いた「運河論争」に一定の終止符が打たれようとしていた時期に書かれたこのルポルタージュは、「斜陽期」の小樽の姿を描いた必読の文章である。
それは小樽の特徴を箇条書きで並べるところから始まっている。

「坂の町/運河と石造倉庫の町/(中略)/スキーの町/洋燈の町/市場の町/そして斜陽の町」(暮らしの手帖編集部1974)
実は小樽を表現する言葉としてガラスが出てきた早い段階の全国誌の文章である。
しかも「洋燈」と表現されているところがキーとなる。
小樽はいつから「ガラスの町」となったのだろうか?



明治・大正期のガラス産業


市立小樽図書館には小樽区ができた明治22(1899)年以降の統計書が残されている。
産業ごとの推移、生産額などをまとめた表も掲載されているが、「硝子製造業」についての記述は見当たらない。

当時「北日本随一の経済都市」といわれた小樽市内では多種多様な物資が行き交っていたが、製造業、流通業ともに「硝子」の文字を見つけることはできない。
もちろん「商工名鑑」などを見れば、大正時代には少なくとも7 軒の「ガラス製品取り扱い」「硝子製造販売」などの商店を確認することができる。

このなかには「近藤硝子店」の名前も出てくる。
小樽の有名ガラス店である「北一硝子」も、前身の「浅原硝子」が福岡出身の浅原久吉によって、明治34(1901)年に創業している。
つまり「硝子店」が存在したことは間違いないが、当時の小樽では「その他」に分類されるマイナーな業種であったと推測される。

例えば大正3(1914)年発行のガイドブック『小樽』巻末の人名録には、「硝子製造業」として浅原久吉と藤井丑吉の2名が掲載されているが、掲載総数およそ700 人のうちの2名、0.3%である。
同じ製造業でも酒類や醤油・味噌などはそれぞれ16、7名の記載がある。

しかし、この時期の小樽には多くのガラス製品が必要とされる素地はあった。
20 世紀後半にプラスチック容器が主要な梱包容器となるまで、多くの製品、特に液体、粉体の容器はほとんどがガラス製品であった。
物流の中心地であり、多くの卸商が軒を並べていた当時の小樽では、大量の梱包材が必要とされていた。

大正期の商工名鑑や電話帳などには「製函業」という職業も目に入る。
その梱包材、容器として大量のガラス製品の需要があったのは間違いない。
浅原硝子でもガラス容器の製造を手掛け、多くの製品を販売していた。

しかし、それでも統計項目に載らないほど、小樽全体の経済規模が大きかったのである。
また、そのように大規模な製造実績があったため、北海道庁は浅原硝子に「硝子浮き玉」の製造開発を委託したのであろう。

漁網用の浮き玉製造は明治43(1910)年からであり、巷でいわれるように「小樽のガラスは浮き玉がルーツ」ではなく、ガラス容器製造が盛んとなっていたため浮き玉製造に繋がっていったと考えるべきであろう。



ガラス製造の衰退と再生


これもよく言われているが「当時盛んであったニシン漁の網に使用され」という表現は正確ではない。
戦後の写真や動画を見ても、ニシン漁の網の浮きは木製(「アバ」)が主流である。
浮力の大きいガラス浮き玉は、もう少し大規模な遠洋漁業で多用された。

ニシン漁は昭和に入るころから漁獲高は激減していくが、それに代わりカムチャッカ方面などの北洋漁業が盛んになり、そこで用いられるようになり、需要はさらに伸びていく。

しかし、戦後、北洋漁業も衰退期を迎え、さらにプラスチック製の浮き玉の登場が追い打ちをかけた。
また前述したように、ガラス製造の基盤であった容器もプラスチックにとって代わられ、ガラス製造は厳しい時代を迎える。

そんな中、1970年代に入ると、長く斜陽の町と言われた小樽で、市民の意見が埋立派、保存派双方に分かれた「運河論争」が巻き起こる。
凋落した経済都市で起きた保存運動は、本州のマスコミも取り上げる社会現象となった。

このころ、若い世代を中心に北海道旅行がブームとなったこともあり、論争の舞台となった運河や小樽の建物を訪れる若い世代も増えてきた。
そんな若者たちが「発見」したのが、駅前の小さなランプ(洋燈)屋「北一硝子」に社名を変更していた浅原硝子であった。

若くして店を継いだ浅原健蔵氏は「実用一辺倒だったランプにデザイン性を持たせ」(北海道新聞2011掲載の浅原健蔵氏の発言)たところ、多くの観光客が手に取る、「実用的で、おしゃれな小樽土産」として人気を博するようになる。
さらに浅原氏は、観光客のニーズを分析し、運河近くの木骨石造倉庫を店舗にすることを計画する。

現在、観光の中心となっている堺町は、当時は問屋街と倉庫街が続く場所で、一般の市民が訪れるような場所ではなかった。
しかも築100年の建物を再利用した例はなく、多くの人々に「無謀」と言われたそうである。

この倉庫が現在北一硝子三号館であり、堺町、小樽観光の代表的なスポットとなっている。
この成功例は、埋立派に多かった経済人たちに「古い建物は資産」という成功例を提示したことになり、これ以降、建造物の再利用、さらに小樽運河の一部保存をいうような大きな流れを生み出していった。
一時は衰退した小樽のガラス産業は、斜陽の町を救う大きな力となってきた。

現在は創作活動の場として、小樽に移住するガラス工芸作家も増えた。
小樽のガラスは作品の美しさの裏に、歴史の重みが隠れている。



参考文献
北海道新聞2011 「私のなかの歴史北一硝子社長浅原健蔵さん」(北海道新聞夕刊)
暮らしの手帖編集部1984 「雪と市場と坂の町★小樽への招待」(『暮らしの手帖』2世紀86号)

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