小樽物語
OTARU “THE” STORY vol.3
小樽のガラス

小樽のガラス




小樽の硝子の歴史



生活必需品の保存容器などの生活雑貨や「石油ランプ」、漁業用「浮き玉」から始まった小樽のガラス。時代とともに需要が減っていったガラス製品は、実用的なものからデザイン性のあるものへと変化しながら、小樽の文化に根付いています。

プラスチックの台頭により、厳しい時代を迎えた小樽のガラス産業。1970年代に入ると、長く斜陽の町と言われた小樽で、「運河論争」が巻き起こり、現在、小樽観光の代表的なスポットとなっている北一硝子三号館が「古い建物は資産」という成功例を示したことになり、これ以降、建造物の再利用、さらに小樽運河の一部保存をいうような大きな流れを生み出していきました。

一時は衰退した小樽のガラス産業ですが、「観光」という斜陽の町を救う大きな力となり、現在は創作活動の場として、小樽に移住するガラス工芸作家も増えました。小樽のガラス作品の美しさの裏にはこうした歴史の重みが隠れています。

小樽の硝子の歴史




浅原硝子製造所×小樽百貨UNGA↑
コラボレーション作品『浮き玉グラス』



浮玉製造の技術を伝えるべく小樽天神にて製作を続ける浅原硝子製造所に、UNGA↑オリジナルのグラスを製作していただきました。

浮き玉グラス


浮き玉グラス

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浅原硝子製造所のあゆみ



明治30年ごろ、小樽は灯具や保存容器として大量のガラス製品の需要があり、ガラス工場が多く在りました。その一つが浅原硝子製造所です。明治36年、初代浅原久吉が小樽市富岡町に硝子製造工場を創業し、ランプや投薬瓶などガラス製の生活雑器の製造をしていたところ、当時の水産試験場から、製造依頼があり、明治43年、ガラスでの漁業用浮玉の製造技法を考案。ニシン漁や北洋漁業に大きく貢献しました。小樽の水産業を発展させたのも、吹きガラスを小樽に根付かせたのも、この「浮き玉」なしには語れません。

浅原久吉は製法を親戚たちに伝授し、道内各地に浅原硝子の工場(小樽・室蘭・釧路・旭川・樺太)を広げていきましたが、プラスチック製浮玉の台頭とともに、徐々に経営規模は縮小となりました。

現在は、浅原宰一郎氏が4代目として家業を継承し、国内で唯一となった「浮玉製造」の技術を伝えるべく小樽天神にて製作を続けています。

小樽の硝子の歴史
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