まじめおたる - 小樽観光
[ 小樽総合博物館 石川館長 執筆 ]


UNGAPLUS店舗のすぐお隣にある小樽市総合博物館(運河館)の石川館長が、小樽を「まじめ」に、深〜く、ご紹介します!

小樽の歴史


小樽を、贈る。

運河を臨む「旧小樽倉庫」から、
北前船とともに歩んだ「小樽の物語」を
お届けするUNGAPLUSより、
「小樽の巡りどころ」をご紹介します。

「小樽」をどうぞお楽しみください。

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小樽を「まじめ」に深〜く
ご紹介するコラム



まじめおたる - 小樽観光
[ 本文の一部をご紹介 ]



小樽観光 - 小樽の深い歴史
【第1話】 北前船とは何か?

「北前船」はかなり一般的な用語となっており、小樽市も認定されている日本遺産「北前船寄港地・船主集落」にも使用されている。ところが、その定義については定説化されていないといってよいだろう。日本遺産で使用されたイメージでは「江戸時代、大坂から瀬戸内、日本海側の港をつなぎ、蝦夷地松前まで回航していた帆掛け船」といったところである。別の定義ではこれに「買い積み船」すなわち、入港する港で価格の高低差を利用した売買を繰り返し、航行していく形態を加えることも多い。北海道で「北前船」の用語を定着させた、地方史研究の先駆、越崎宗一氏によれば「徳川時代から明治にかけて北海道と北陸関西間を、日本海を通って物資の交流につくした千石船」と紹介している。

一方で江戸時代のいわゆる西廻り航路で交易をおこなう船の名称として「北前船」がふさわしいのか?といった根本的な疑問もまだ解決していない。高校日本史の用語としてはすでに定着しており、かなり広く用いられてきているが、本来は一部の地域で使われていた名称であった。たとえば北海道では「弁財船」「ベザイ船」さらには「千石船」などと呼ばれていたことが知られている。ただ、先述の越崎氏の文章に氏の祖母の言葉として「お前のお祖父さんは郷里から「北前」に乗って小樽にやってきた。」という表現が記録されており、北陸(越崎家は加賀より来道)もしくは北海道でも使用されていた可能性がある。

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北前船

北前船



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【第2話】旧小樽倉庫
〜ニシンで始まる物語〜

運河沿いに、ひときわ目立つシャチホコをあげた石造倉庫。旧小樽倉庫本庫は、歴史的建造物の多い小樽の中でも、代表的な建造物である。北前船主が建て、北日本随一の経済都市を支えたこの倉庫の物語を、四国・徳島県から始めるのは、いささか突飛に思われるかもしれない。徳島の吉野川中流域で江戸時代、手広く肥料商を営んでいた山西家の古文書の中に、北前船主たちにあてた、ニシン粕の委託販売の売り上げ状況を伝える書状が見つかっている。

当時の徳島では藍栽培が最盛期を迎え、その栽培の必需品と言われたものが、ニシン粕であった。その販売と運搬を担っていた北前船は買積船であり、遠隔地での価格差を利用して商売を成り立たせている。そこで各地での需要、生産状況などの詳細情報を収集する必要がある。またこれらの情報を得るための人脈、ネットワークを構築することが求められていた。このネットワークの中に徳島の諸商人が組み込まれていたのである。書状のあて先は12 人の北前船主と船頭であるが、その最後に記されているあて先は「西谷庄八殿」となっている。このニシン粕で財を築いていた西谷が同郷、加賀橋立(現加賀市)の西出孫左衛門とともに、明治20 年代に新しい分野に進出していく。それが北海道での倉庫業である。

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旧小樽倉庫

旧小樽倉庫

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海運の街小樽から開運を・・・
途切れないように守られてきた流れを味方に
あなたの運も開けますように。

明治期、北海道開拓の玄関口として栄えた小樽。
北前船が大海原で純白の帆をはためかせ、本州との往来により、この地に多くの物資や文化を運びました。

UNGAPLUSは、北前船船主 西出孫左衛門と西谷庄八が建てた北海道で初めての営業倉庫「旧小樽倉庫本庫」から、今なお小樽に遺る歴史や文化を載せたオリジナル商品と、北前船の寄港地の良品をお届けします。

北前船とともに歩んだ小樽の物語を、この場所から。

お土産としても喜ばれるここだけにしかないオリジナルの品々を取り揃え、皆様のご来店をお待ち申し上げます。

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UNGAPLUS

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店舗名
UNGAPLUS
住所
〒047-0031 小樽市色内2-1-20
電話
0134-65-8150
営業時間
10:00~18:00
定休日
無休
ホームページ
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小樽観光 - 小樽の深い歴史
【第3話】旧日本郵船株式会社小樽支店
〜ジョサイア・コンドルの弟子たち〜

明治政府が、東京などの主要都市に西洋風の巨大な建物を次々と立てていったことは、日本の近代化を国民に理解させるために大きな力となった。外国人技術者を招くだけではなく、日本人建築家を養成することが喫緊の課題となっていく。明治政府は、明治10(1877)年、イギリスから弱冠25 歳の青年建築家ジョサイア・コンドルを招聘し、工部大学校造家学科教授とする。その最初の学生はわずか4人。その中の一人が、重要文化財日本郵船株式会社小樽支店(以下「日本郵船小樽支店」もしくは「小樽支店」)の設計者、佐立七次郎(1856―1922)である。

佐立の同期生は、日本銀行本店・小樽支店や東京駅を設計した辰野金吾、三菱一号館、三井銀行小樽支店などを手掛けた曽禰達蔵、迎賓館など宮内省関係の建物を設計した片山東熊の三人。いずれも国内に多くの建物を建て、重要文化財に指定されているものも多い。一方、佐立の作品は小樽支店と東京にある「日本水準原点標庫」(国指定重要文化財)のみである。性格的にも社交的とは言えなかったようで、三人とくらべると知名度は低い。しかし「同期生」とは言いながらものちに日本建築界をリードし、東京大学教授となる辰野や、恩師コンドルと同じ年で彰義隊の生き残りの曽禰など、強烈な個性を持った三人に対し、佐立がコンドルと会ったときはまだ18歳の青年で最年少、己を主張せよ、といっても土台無理な環境ではあった。

そんなこともあってか、恩師コンドルは現場の助手として佐立をよく連れて行った。その意味で、コンドルの影響を最も忠実に受けたのは佐立といえる。彼が設計した代表作といえる名古屋郵便局(濃尾地震で倒壊。佐立の隠遁生活のきっかけといわれる)や東京証券取引所(関東大震災で倒壊)は、重厚ながらも、優美なヨーロッパの様式を取り入れた作品であった。特に東京証券取引所は小樽支店とよく似た外観を持ち、プロトタイプともいえる。

コンドルの教えを守り、内部装飾も輸入建材を巧みに取り入れながら、統一されたデザインで設計されている。一方で、寒冷地に対応した二重窓や取手、手元を照らすことのできる照明など、使う人のことを考えた設計になっている。建物内の動線を「一般客・賓客・職員」の三区分にすることなど、近代建築の要素をしっかりとコンドルから受け継いだものといえよう。

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旧日本郵船株式会社小樽支店

旧日本郵船株式会社小樽支店



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【第4話】石炭
〜「燃える石」の発見〜

1868(明治元)年、蝦夷地石狩川支流の山奥で奇妙な黒光りする石が見つかった。一説には小樽本願寺別院の建築用材の伐採に入った大工がその発見者といわれている。残念ながらアイヌの人々が「燃える石」をどのように認識していたか、資料が乏しく詳細は分かっていない。少なくとも文献上では、これが空知・幌内の石炭の最初の発見だと言われている。この石炭はすぐに開拓使に届けられた。この時期、すでに開拓使は石炭を道内で探していた。したがって「石炭とは何か」を知らなかったはずはないのだが、なぜか開拓使ではこの届け出を放置している。

ではなぜ開拓使は石炭を探していたのか?それは幕末に結んだ「日米和親条約」が原因だった。嘉永7(1854)年に帰結されたこの条約で、下田と箱館の開港が決まる。さらにこの二港に来航した米国船(のちに他の外国船にも)は「薪、水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。」と明記されている。石炭以外は国内どこでも調達できたが、石炭だけは供給が困難だった。なぜなら当時は需要がほとんどなく、採掘がされていなかったからである。

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石炭の発見

石炭の発見



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【第5話】昆布
〜利尻と小樽〜

京都御苑の富小路口(地図でいうと京都御苑南側の右側の出口)、丸太町通りを挟んだ南側、京都風の地理表現でいうと、「丸太町富小路東入ル」に「昆布屋町」という町名が残っている。現在は10件に満たない小さな町である。残念ながら、昆布を扱う店はないが、北海道の昆布が京都まで運ばれたことを示すものであろう。真偽は定かではないが、京都の知人に言わせると「大阪の人は風味が強い真昆布(おもに南茅部を中心とした地域で獲れる)を好むが、京都は表面が固く、だし汁に色が移らない、利尻昆布を好む」とのことである。では、京都の人々はいつから昆布を好むようになったのであろうか。延暦16年(797年)に編纂された公的歴史書『日本書紀』にでてくる「軍布」が昆布のことと言われているが、昆布そのものは奈良時代から使われていたと考えられている。ではその昆布はどこから来たのであろうか。

興味深い史料がある。延長5(927)年の『延喜式』は藤原忠平の命によって編纂され規則周で、当時の法律である「律令」の運用に必要な施行規則を全集成したものである。10世紀の国内での行政状況が伺えるものである。その中で政府に納める、各地の特産物をリスト化した「民部式・交易雑物条」である。 太平洋側の陸奥国から朝貢される物品として「独犴皮、砂金、昆布、索昆布、細昆布」とある。同じく日本海側の出羽国では「熊皮、葦鹿皮、独犴皮」であり、陸奥国のみに「昆布」の文字がみえる。現在の養殖昆布の数字であるが、全国で昆布を出荷しているのは北海道と岩手県で97%、つまりほどんどがこの二つの場所で生産されているのである。そのうち岩手県では全体の24%で、現在も主要産地となっている。ちなみに出羽国にあたる秋田県では2018年の数字わずか9 トン、比率で表すと0.02%で、この昆布という産物の地域的な特色が理解できる。

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昆布



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【第6話】帆布
〜和船の革命 松右衛門帆〜

江戸時代、いわゆる北前船と言われた西廻り航路だけではなく、「菱垣廻船」「樽廻船」などと呼ばれた沿岸航路の海上交易が盛んになっていく。船の構造から遠洋航海には向かなかったと言われているが、江戸時代中期までその問題は帆にあった。この当時、船の大小にかかわらず、帆の材質は莚(むしろ)もしくは、綿布を数枚重ね、縫い合わせた「刺子」であった。後者の方が耐久性はあったが、大きな帆の全面に刺子を施す労力は大きく、その労力に比べると耐久性はまだ信頼に値するものではなかった。

18世紀、天明5(1785)年、播磨国高砂(現在の兵庫県高砂市)、工樂(御影屋)松右衛門によって、現在の帆布の原型といえる「松右衛門帆」が開発される。播州特産の綿を使った厚手で広幅の帆布を織り上げることにより生まれた松右衛門帆は、あっという間に全国の船で愛用される。これには松右衛門が製法を一般に公開したことも大きく影響している。これにより、沿岸航路の安全性区距離は飛躍的に増大した。近江商人の活躍、北陸などの船主集落の隆盛はこの帆の改良によってもたらされたといっても過言ではない。また帆布生産も綿の生産地で定着していく。

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松右衛門帆



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【第7話】ニシンと番屋

江戸時代、松前の風呂屋仲間が提出した値上げの申請届が残されている。万延元(1860)年に松前(当時は福山)の風呂屋仲間の連名で提出されている。この申請届にはその理由が「近年打續薪并明油等必至ト高」、つまり物価高であること。そしてもう一点は「近年東西蝦夷地出稼之族も多く有之入湯之ものも自然と不足仕」と記されている。この「出稼之族」とは蝦夷地へニシン漁に出かけていく漁民を指している。江戸時代後期、「江差の春は江戸にもない」と歌われるほどの活況を呈していた道南のニシン漁は、乱獲などにより漁況が振るわなくなっていった。

一方、蝦夷地では「場所請負商人」たちにより漁場が開発されていた。当初は漁場周辺のアイヌの人々を使役するのみであったが、不漁に苦しむ松前領内の漁民達からの強い要望もあり、蝦夷地への「出稼ぎ」が許可される。この蝦夷地への出稼ぎを「追鰊(おいにしん)」という。小樽周辺では18世紀末に追鰊が可能となった。当初はニシン漁の時期のみ、蝦夷地で暮らすことを許され、越年は許可されなかったが、次第に定住化が進み、特に安政2(1855)年、先ほどの値上げ申請届が出されているのである。風呂代の値上げ理由になるほど、町から漁民の姿が消えたのか、風呂屋仲間の脚色なのかは判然としないが、松前の城下町が閑散となるような大きな変化があったことは想像に難くない。こうして後志地区はニシン漁の中心となっていった。

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ニシンと番屋



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【第8話】色内銀行街

旧手宮線散策路を越え、日本銀行旧小樽支店(金融資料館)から色内十字街周辺にかけての地区は、小樽の歴史的景観を代表する地区である。明治から大正、さらには昭和中期までの建造物、特に銀行建築が建ち並ぶ景観は圧巻である0。実は、半径500mの狭い地域に、各時代の銀行建築がこれほど密集して残る地区は日本では他に見当たらない。北海道の近代化だけではなく、日本の近代化を象徴する地区と言える。かつて小樽は20 を超える銀行が活動する「金融の街」であった。

小樽で最初の「銀行(国立銀行条例に基づく銀行)」は明治12(1879)年に第四十四銀行と第六十七銀行が各支店を小樽に置いたとされる。場所は不明であるが、翌年に開設した三井銀行小樽出張所が「士場町(現在の住吉町と信香町にあたる)353」に置かれていることから、当時の小樽市街地の中心であった南小樽地区のいずれかに開かれたと推定される。日本に「銀行」という制度が持ち込まれたのは明治5(1972)年の国立銀行条例の制定、翌年の渋沢栄一による「国立第一銀行」の設立からと言ってよいであろう。3年後の明治9(1876)年に条例が改正され、設立が許可された三井銀行が函館出張店と札幌出張店を開設している。これが北海道最初の銀行である。

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色内銀行街



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【第9話】斜陽の町からガラスの町へ

小樽が観光都市に変貌する直前の昭和59(1974)年、著名な家庭雑誌『暮らしの手帖』の巻頭で小樽の特集が組まれる。長年続いた「運河論争」に一定の終止符が打たれようとしていた時期に書かれたこのルポルタージュは、「斜陽期」の小樽の姿を描いた必読の文章である。それは小樽の特徴を箇条書きで並べるところから始まっている。

「坂の町/運河と石造倉庫の町/(中略)/スキーの町/洋燈の町/市場の町/そして斜陽の町」(暮らしの手帖編集部1974)
実は小樽を表現する言葉としてガラスが出てきた早い段階の全国誌の文章である。しかも「洋燈」と表現されているところがキーとなる。小樽はいつから「ガラスの町」となったのだろうか?

市立小樽図書館には小樽区ができた明治22(1899)年以降の統計書が残されている。産業ごとの推移、生産額などをまとめた表も掲載されているが、「硝子製造業」についての記述は見当たらない。当時「北日本随一の経済都市」といわれた小樽市内では多種多様な物資が行き交っていたが、製造業、流通業ともに「硝子」の文字を見つけることはできない。もちろん「商工名鑑」などを見れば、大正時代には少なくとも7 軒の「ガラス製品取り扱い」「硝子製造販売」などの商店を確認することができる。このなかには「近藤硝子店」の名前も出てくる。小樽の有名ガラス店である「北一硝子」も、前身の「浅原硝子」が福岡出身の浅原久吉によって、明治34(1901)年に創業している。つまり「硝子店」が存在したことは間違いないが、当時の小樽では「その他」に分類されるマイナーな業種であったと推測される。

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ガラスの町



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【第10話】ローソクの灯りの似合う町

小樽に心を寄せる人々であれば、ローソクから連想するのは2月の厳寒期に行われる「小樽雪あかりの路」であろう。「雪あかり」とは、積雪に灯火がうつり、周囲が薄明るくなることで、冬の季語ともなっている。つまり日本の積雪地帯においてはどこにでも起きうる現象であるが、儚く脆いその語感は小樽の持つもうひとつのイメージに合うものである。そもそも、このイベントの名前は、小樽出身の作家、伊藤整(1905−1969)が大正14(1925)年に出版した最初の詩集『雪明りの路』にちなんで名付けられたものである。序文の「之が今までの私の全部だ。なんといふ貧しさだらう。(中略)私はまた之からこの詩集を懐にして独りで歩いて行かなければならない。頼りないたどたどしい路を歩いて行かなければならない。」とあるように、若き詩人のひそかな自信の裏に、緊張と不安を抱きながら出版された詩集であった。

この詩集に描かれる光景は、伊藤整の心の中で描かれた小樽の光景であったのだろう。小樽は、明治期以来、新興経済として発展し、多くの作家たちが北海道視察の際に立ち寄る場所となっていた。小樽文学館前館長、亀井秀雄によれば、小樽を舞台にした文学作品は、1876(明治9)年、三条実美の「小樽八景」からである。2018年の段階で、小樽図書館所蔵作品に絞っても100を超える作品を見ることが出来る。特に運河論争前後から、「斜陽の町」と歴史資産に注目が集まり、作品の舞台としては格好の場所となったことも作品数が多い理由の一つである。

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ローソクの灯りの似合う町



小樽観光 - 小樽の深い歴史
【第11話】縄文土器
〜北海道考古学発祥の地
手宮公園下遺跡〜

小樽、北海道における、最初の「縄文土器」の報告は、明治11年(1878年)7月26日、米国人の生物学者エドワード・S・モースによって行われた。「モース」の名前に聞き覚えのある方もいると思う。日本史の教科書に「大森貝塚を発見した考古学者」として登場している。「縄文土器」という名前はモースが東京大森貝塚の調査報告で使用した「cord marked pottery」に由来する。現在の研究では、縄文時代≒縄文土器の製作年代はおよそ16,000年前から開始され、北海道では「続縄文土器」にかわるBC300年ころまで続いた。縄文土器の特徴は、なんといっても「縄文」にあるが、土器の表面に「縄」状のものを押し付ける制作方法は、世界的には珍しくはないが、「縄」状の工具を土器の表面で転がして文様とする技法は、日本列島独自のものといってよいだろう。

では、縄文土器は何の用途に使ったものなのだろうか?現在の研究では、列島で独自に発生したと思われるが、その主目的は「煮炊き」にあった。それまでの旧石器文化では、「焼く」という調理法は存在したが、ドングリなどの固い木の実を食べる方法は無かった。土器の発明は、それまでの肉、魚にくわえ植物性の食糧の利用を可能にした、画期的なものだった。食糧となる資源の増加は、人口の増加をもたらし、日本列島各地に多くの遺跡を残すようになる。「煮炊き」に使用するため(それ以外の用途の土器も中期以降増加する)、「鍋」としての機能に特化していくはずなのだが、これも縄文文化の特色の一つで、装飾的な器形や、過剰ともいえる文様が土器にほどこされている。しかし、やはり基本は鍋であった。そのために熱効率の良い形に進化していく。それがゆるやかに上方に開く円筒形の形だ。現在では「鉢」に近い形なのだが、縄文時代の生活では、この形こそが最も機能的なものであった。それは、熱源が「炉」つまりイロリであったからだ。炉の中央に置き、そこからではなく、周囲から熱を吸収しやすいような、ずん胴な形こそが重要であった。

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縄文土器



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